入江紀子『のら』読書感想文
とても好きなマンガがある。
それは中古で買った漫画で、タイトルを『のら』という。
何となく手に取った本なので、買おうと思った理由も思い出せない。
買ったのは学生時代だから、2000年前後。
だから、もう15年以上前になる。
とても好きな話なのに、未だにその良さをうまく表現できないでいる。
なので、読書感想文という名の、チャレンジをしてみたいと思う。
まだ上手に説明できるかどうか分からないけど、何事もチャレンジだ。
物語の主人公の名前は「のら」という。
野良猫や野良犬の「のら」。
のらには家がない。
誰かの家に泊めてもらったり、神社の軒下や公園で眠ったり、バイトさせてもらった家で眠ったり、その日暮らしの生活を続けている。
「のら」という名前は本名じゃない。
主人公は、自分の名前を思い出せないでいる。
思い出せない理由は、幼い頃に呼ばれて以来、本当の名前で呼ばれていないからだ。
あるいは、別の理由もあるのかもしれない。
出会った人には、その人の好きな名前で呼んでもらっている。
「のら」と呼ぶ人もいれば、分かれた彼女と同じ名前で呼んだり、人それぞれだ。
そんな自由な生活を送るのらと、のらに出会った人たちの、わずかな時間のエピソードや、その前日談や後日談が物語として描かれている。
のらは人懐っこい。
誰とでも仲良くなれる。
気づくと懐の中にいる。
でも。
いつまでもそばにいてほしいと望むと、すっと消えてしまう。
のらは何物にも縛られないのだろう。
相手が望めばエッチもする。
「ご飯を食べる」「本を読む」「洗濯物をたたむ」くらい自然なこととして「エッチをする」。
公園で寝ているときに襲われたこともある。
それでも、のらはたんたんと、ただ命があることを感謝して生活を続ける。
のらはとても自然体で、自由なんだなぁと感じた。
名前を思い出せない理由はもしかしたら、名前に縛られたくないからなのかもしれない。
ネットで感想を読んでみると、その自由さにあこがれるという意見を散見する。
しかし作者は、のらだけでなくすべてのキャラクターは自由であり、その不自由さをも自分で選択しているという。
まるで、アドラー心理学のような話だなと感じた。
でも、確かにのらは何物にも縛られないという生き方を選択しているように思う。
ある時のらは、恋をした。
今まで恋をしてこなかったのらは、自身の感情に驚き、相手と一緒にいることを拒否する。
恋した相手に気持ちが縛られてしまうことを恐れてのこと。
そして、のらはいつもどおりにどこかに消えてしまう。
それを自由を呼ぶのか、自然体と呼ぶのか、僕には分からない。
もしかしたら、とても不自由なことで、不自然な選択なのでないかと感じた。
ただ、彼女は何物にも縛られないという、彼女自身のルールに従って生きていった。
僕が『のら』という作品に惹かれた理由は、のらの何物にも縛られないという生き方に憧れを抱いたからなのかなと思っていた。
でも、もしかしたら、彼女の人生の、彼女の選択に、敬意を払っているからではないかと思い始めた。
その美学を、純粋に美しいと感じ、その清々しさを読み終えた後に噛みしめているのではないかと思った。
そして、のらがいつか、自分の恋を認めて生きることができたら。
それもまたとても美しいと感じるのだろう。
のらはまだまだ旅の途中で、それはとても幸せな旅だ。
のらを読む僕らも、まだまだ旅の途中で、本当はそれもとても幸せな旅なのだろう。
僕らには、旅のルールを決める自由がある。
自分の旅だ。決めるのは当然自分しかいない。何物にも縛られてはいない。もし縛られているとするならば、それは縛られようと決心したからだ。
幸せで素晴らしい旅を。
命を終えるその日まで続けていこうと思える作品なのだと思う。
- PREV
- SMAP崩壊に見る理想的な組織のカタチ~アドラー心理学の未来~
- NEXT
- 有料の物質と無料のデータ