快であるか不快でない
自分が行動する時の動機を考えてみると
「それをすると快である」
もしくは
「それをすると不快でなくなる」
の2つがあるなと感じた。
だから、何かを成し遂げたい時には「快い(ポジティブな)未来」を想像する。
さらに、成し遂げなかった時の「不快(ネガティブな)未来」を想像する。
あるいは、それを成し遂げるための独自のルール(1日何ページ勉強するetc.)を決めてしまい、「ルールを破る不快」をつくる。
そうすると、まぁ、結構クリアできる。
逆に、どっちでもいいことはクリアできない。
そもそも、快な未来が想像できないものはクリアできない。
それなのに、ルールで縛り付けても嫌な気持ちになるだけで。なんなら「オレってダメだな」とか思っちゃうので、そういうことはしないようにしてる。
ただ一方で、あまりに強い快や不快を利用するのは違うような気がしてる。
目がくらむほどの報酬や、恐怖でコントロールすると、冷静な判断ができなくなる危険性が高いから。
それは教育ではなく、洗脳だと思う。
思い返せば、精神的にくるような叱り方をしたことがあったなぁと思う。
だから、自分に対する戒めとしてもここに書いておこうと思った。
今日の仮説・叩き台
『適度な快と不快が達成のエンジンになる。』
『判断できる人にするのが教育。判断できない人にするのが洗脳。』
- PREV
- ボトルネックを探し出せ
- NEXT
- 矛盾の中の宝石