広義の勉強
アインシュタインが教育について、こう言ってるそうです。
「学校で学んだことを一切忘れてしまった時になお残っているもの、それこそ教育だ」
ここでいう「教育」というのは、受けるものであったり、施すものって意味で。
その自動詞的、他動詞的発想を消してしまえば、勉強・学習も同義だと思います。
だから、「学んだことを一切忘れてしまった時になお残っているもの」が、勉強の成果だったり、学習の成果とも言えるわけです。
ということは、もっと言えば、子供の頃に遊んだ記憶も、広義の勉強になるわけですよ。
もっともっと言えば、自分の中に残っているもの全部が、勉強の成果、学習の成果なわけです。
てことは、机の前に座っている必要まったくないんです。
経験、体験した思い出が既に勉強の成果なんです。
そう考えると、実は洗脳だって、同じ原理だと思うわけです。
自分の中に蓄積された「パターン」は全部勉強の成果って言えちゃうんだよなと、広義の勉強について考えるとたどり着きます。
今日の仮説・叩き台
『広義の勉強とは、自分の中に蓄積された「パターン」を生み出した行動を指す。』